やりたくないことに理由なんてない
「やりたくない」
というと
「なんで?」
と返されることがある
やりたくないことに理由なんて必要なのだろうか
やりたくないことにあえて理由をつけるならばそれはやはり「やりたくないから」である
だがそれではまた「なんで?」が返ってくる
「やりたくない」と「なんで」の無限ループに陥ってしまう
やりたくないからやりたくないではいけないのか
他の人間はやりたくないことにいちいち理由をつけているのだろうか
「やりたくない」とは「やりたい」の対極に位置されると考えてよい
人間が「やりたい」こと以外は、それすなわち「やりたくない」ことである
(やってもやらなくてもどっちでもいい、興味が無いなどは、「やりたい」ことではないのでもちろん後者)
また、せいぜい100年程度しか寿命の無い人間が考え得る「やりたい」ことなんてものはこの世の森羅万象の内のほんのわずかだろう
それだけ世界は広いし可能性に満ちている
「やりたくない」なんてものはそれこそ星の数ほど存在しているはずだ
その膨大な「やりたくない」にひとつひとつ理由をつけているのか?
天文学者でも全宇宙のすべての星の名前なんて把握していないだろう
「やりたくない」なんてことは「どうでもいい」ことでもある
つまり重要なことではない
どうでもいいことのどうでもいい理由なんて、そんなものは小数点のように切り捨ていいよくないか?
どうでもいいんだよ
数学のテストなら小数点の第何桁まで求めなければいけないかもしれないが、日常生活の「やりたくない」理由なんでどうでもいいから切り捨てていいし、そもそもそんなこと考えないんだよ
無限に可能性が存在する「やりたくない」ことに理由をいちいち考える暇は無いし、しかも人様に向けて懇切丁寧に言語化までして説明してる暇はもっと無いんだよ
そんなことしている暇があったら「やりたい」ことに時間を使いたいんだよ
それなのに何が「なんで?」なんだよ
そんな無駄に時間を費やすような質問を投げかけてくるんじゃないよ
例えば「教師」が仕事の人がいて、その人になんで「庭師」をやらないんですか?
なんて質問はどう考えてもおかしいだろ
その人は「教師」をやりたいのであって「庭師」はやりたくないからだろ
たまたま「庭」よりも「子供」が好きだっただけだろ
そんなこと言ったらきりが無いんだよ
他にも「医師」も「看護師」も「美容師」も「牧師」も「魔導師」も「詐欺師」も
「教師」より「やりたくない」だけだろ
「やりたい」ことには理由があるんだよ
「教師」をなぜ「やりたい」かは質問として成立している
「子供が好き」「教えるのが好き」「学校が好き」「夏休みが好き」
人それぞれやりたい理由、つまり「動機」があるのだ
やりたくないものには「動機」がないんだよ
動機が無いからやりたくないんだよ
無い袖は振れないのと同じだ
「無い袖はなんで振れないのですか?」
いや無いからだろ
なにが「なんで?」なんだよ
いやほんとにこっちが「なんで?」だよ・・・
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